パニック障害克服への道筋(保存版)

うつ克服
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この記事は、私がパニック障害を発症してから、
克服までの道筋を時系列で簡単にまとめた記事です。

まず、パニックの完治という捉え方だと、逆に辛いと思うので、

克服(Under control的)する

というイメージが良いと思います。

一度、脳がパニック発作の時の状況を記憶している以上は、
何かの拍子にフラッシュバックすることは
きっとこの先もあると理解して、

ただ、これは人間の脳の生理現象なので、
仕方の無いことだと受け入れます。

その上で、さらに大きな視点で、

その自分さえも客観的に観察してコントロール出来る
精神状態を持てるように訓練
します。

常に、自分自身を第3の目で離れた視点から、静かに眺めるような感じです。

パニックになりそうな自分を、
幽体離脱した自分が、少し上の視点から見ているようなイメージです。

瞑想の目的が、肉体と精神を切り離して、魂を高次元に持って行くことなので、
そのイメージが近いかもしれません。

パニック克服までの5段階評価

その上で、5段階の数値化ですが、

・・・パニックを忘れるほど普通に楽しく生活し、強いストレスを受けたとしても通常通り処理出来る

4・・・パニックを忘れるほど楽しく過ごせているが、強いストレスや、思わぬ場面に遭遇すると、ふと頭をよぎる程度

3・・・パニックへの不安は抱えつつも、自力である程度コントロール出来、日常生活は送れる。ただ、波はまだあり、油断すると時々予期不安に襲われることがある

2・・・昼間は辛うじて行動出来るが仕事などは厳しい状態。夜は不眠、予期不安に襲われ、波が強く、治ったという気持ちと、やっぱりダメだ・・・という気持ちが混在する時期

1・・・鬱症状が強すぎ、少しでも気を抜くと予期不安の恐怖から過呼吸が起き、死の恐怖で気が狂いそうになる。体も怠く買い物に行くことも厳しい状態。

私の回復への5段階を分けるとすれば、このような感じです。

パニック克服への期間

現在治療中の方にとって、回復までにどれほどの期間を必要とするのか、
とても気になる点だと思います。

私が発症してから、自力で克服しようと決意してからは、
荒療治でスピード治療を目指したので、
長く患っている方には私の期間は当たらない気がするのですが・・・

上の、5段階を踏まえて、どの時期にどのような状態で過ごしていたのかで書きます。

パニック障害発症1年目

まず、発症直後が1の段階で、1週間くらいはこの状態が続き、
塾も金・土・日を連続でお休みして、
月曜日の夜は静かに自習してくれる中3の学年だったので協力してくれました。

とにかく、塾の時間帯だけはなんとか動かなければ・・・という思いで、
色々と試して、2の状態に持って行き、
その状態が、その後2ヶ月ほど続きました。

5月初旬発症で、7月頃からは水泳を始めています。

その過呼吸発作を克服するための水泳を始めたときも、
段階的には2の状態で、
夜は毎日のように予期不安と過呼吸発作に襲われていました。

状態が辛くなったときには、日記に沢山、
今日の出来事を全て時系列で書き綴っていって、
どんな気分だったとか、事細かく書き続けます。
そうすると徐々に気持ちが落ち着いていく感じでした。

8月には、毎年恒例の中3の渡嘉敷島合宿があり、
中3生は、ずっと楽しみにしていたこともあって、
どうしても連れて行ってあげたいという気持ちがあり、
必死で克服しようと頑張りましたが、かなり状況が悪く、
苦しみました。

その年は(運良く)台風で船が欠航となり、中止になりました。

中3には本当に申し訳ない思いで、埋め合わせに本島内の温泉や、
焼き肉屋に連れて行ったり、塾で合宿したり等で我慢して貰いました。

そこから2より3が多い状態がしばらく続き、
11月頃には日焼けサロンに行って全裸焼きして、
見た目からも健康なんだと洗脳を心がけて、
可能な限り体育館の安いジムに行ってトレーニングしたり等、
快方に向かっていたのですが、

冬休み、中3生をお泊まり会で、朝、マクドナルドに連れて行こうとすると、
突然パニック発作が再発してしまい、
頭のてっぺんから冷たい水が噴水のように湧き出るような冷や汗が出てきて、
自分の体に何が起きているのかが理解出来ず、
ひとまずホットココアだけを飲んで、近くの総合病院に駆けつけました。

そこで、精密検査をして貰い、その間にだんだんと回復していって、
自分がまだパニック障害なのだ思い知らされた出来事でした。

もちろん、どこにも異常は見つかりません。

治ったと思っていたのが、こうやって突然ぶり返すことに、
とてもショックを受けて、かなりへこみました。

ただ、その日を切っ掛けにして、本格的に克服しようという思いが強くなった感じです。

ブログを始めたのも、その1つでした。

アメブロの初期の記事は、自分に対して鼓舞する目的で書いたものもあったり、

本やネットで調べて、良いと思った内容を自分なりに読み返せるように書いたり、

メッセージでの相談に対して、答える形で書いたものだったりします。

その後、無事に中3生を送り出しましたが、塾経営者にとっては、
この3月というのが一番辛く、
4月から収入が激減することや、新しい生徒が入ってくるかなど、
とてもストレスが大きくなる時期です。

その不安な時期を、

何ヶ月なら持ちこたえられるか・・・、
借り入れで耐えられるのは、この時期までだから、
それまでに何人増やさないと・・・など色々と考えて、

とにかく不安を、曖昧なままにせず、数値化して不安要素を客観化しました。

パニック障害発症2年目(発症から1年経過)

パニック発症から1年が経過し、その1年を振り返りながらも、
少しずつ回復しているという状況で、3と4を行ったり来たりで、
問題児の多い新中3だったので、ストレスはありましたが、
そのストレスもコントロール出来る状態でした。

ただ、時々、ストレスが溜まりすぎると過呼吸が起きそうになって、
酷い鬱が襲うこともあり、そのときには高3の教え子が背中をマッサージしてくれたので、
かなり助けて貰っています。

この2年目の時期は、3,4の状態を行ったり来たりして、
ほぼ快調の日々が続き、
1ヶ月に1回、の夜が来ていたのが、(予期不安がぶり返す)
2ヶ月に1回・・・、3ヶ月に1回・・・
と間隔が開いていきました。

私はパニック障害の回復は波のようなものだと認識していたので、

久しぶりに発作が来ると、

「前の発作から3ヶ月だな・・・、だいぶ感覚が広くなってる」

と、前向きに捉え、その不調の2,3日(時に1週間)を静かな心で過ごすようにします。
(アロマでオレンジ・ラベンダーを炊いたり)

パニック障害発症3年目(発症から2年経過)

3年目、教え子の結婚式に呼ばれ約20年ぶりに飛行機に乗って福岡に小旅行しました。

飛行機に乗ることや、沖縄を離れることでの不安感で、3の下の状態が続きましたが、

これで行かなければ、一生パニックにおびえて過ごすことになると、

頑張って行って、とても良い想い出になり、かなり回復に向かったのを実感したのですが、

その直後、些細なことから母親と大げんかして、

『鬱の原因、引き金は母親にあるのだ』

と改めて認識して、自分の心の平穏のために絶縁しました。(1年間)

そこから1年間、やはり母の健康が気にはなるものの、
会わないことで得られる平穏な心の方が大きかったです。
その1年間は、ほぼ4の状態、時に5の状態もあったと思います。

パニック障害発症4年目(発症から3年経過)

母との絶縁を解消したのが、母のヘルニア手術の失敗による、入院が切っ掛けです。

私はそもそも手術を反対していましたが、姉と兄が軽い気持ちで決行させ、
予想を超えた大失敗で、その後半年間も入院生活を強いられました。

ほぼ毎日病院に顔を出して、一向に良くならない病状にいらだつ母をなだめたり、
愚痴を聞いたりして、ストレスフルな日々でしたが、
私自身の状態は4の状態をキープ出来ていました。

恐らく、そのとき抱えていた中3の学年が、
とても大人しくて仲の良いメンバーだったこともあります。
私が居なくても自分たちで勝手にお風呂に入って騒いでは楽しそうに過ごしているので、
母親の病院から帰ってきても、その無邪気な様子にとても癒やされました。
(1つ上の学年の先輩達のマネです(^◇^;)
(かなり風呂場がデカいので、中学生達は私の目を盗んでお湯を貯め、温泉ごっこ?をします(^_^;)

パニック障害発症5年目(発症から4年経過)

5年目ですが、塾生がかなり減って、私はかなり追い込まれた状態でしたが、
なんとかギリギリの経営が出来る状態をキープしていました。

ただ、仕事の無くなった母の生活を支えるため、
どうするべきかを私ひとりでは無理だと思い、
姉に相談し、しばらく援助を申し出ると、
これまで放置していたくせに、突然出しゃばってきて仕切り出し、

ひとり何万ずつ徴収するよ!

と言い出したので、私は怒りでパニックが再発してしまい、
酷い過呼吸発作や、怒りに近い鬱症状が出て、
気持ちをコントロール出来ない状態に一気に悪化しました。

この母と姉の確執のために、散々振り回されてきた私は、

まったく問題を解決出来ない姉に頼るよりは、
(さらに状況を悪化させるだけ)
結局全て私がコントロールした方が良いと悟り
様々な仕組みを構築しながら、
母親が、誰の支援を受けずともやっていけるように
準備をしつつ、

同時に、父と母の面倒を押しつけてきた他の兄弟にも、
私のこれまでの苦労を少しでも分かって貰おうと思い、
新たな塾生の募集をストップし、翌年、1年塾を休んで
県外に修行(勉強)に行こうと準備を始めたのでした。

その間の状態は、3~5を行ったり来たりですが、

平均すれば、4の上だったと思います。

児童養護施設の子を預かったこともあり、また、

生徒数を絞って経営的には赤字経営を続けてきたこともあって、

とてもストレスの多い時期でしたが、

ストレスを受けても感情をコントロールし、

パニック発作が起こらない状態になっている実感がありました。

パニック障害発症6年目(発症から5年が経過)

この年が、期間工として愛知県に行った期間です。

まず、期間工に行こうと思ったはじまりは、

教え子のひとりが大学を1年休学し、
期間工でお金を貯めて
海外にワーキングホリデイに行った話を聞かせてくれたことでした。

その話を聞き、期間工であれば、仕事、住む場所、安定した高収入を得られると考え、

行ければ、私の抱えている様々な問題を一気に解決出来ると考えていました。

その問題について書いていくと、それだけで長くなるため、ここでは割愛します。

目的の1つである、パニック障害を完全に克服する!というのは、

パニック障害にとって苦手である、

慣れない場所への移動、仕事、長時間の拘束などなど、

そのとき想定出来る、全ての状況が期間工の仕事には揃っていたため、

この仕事を期間満了まで耐えられれば、自信を持って、次のステージに進めると考えたのでした。

結果は、ブログの記事に書いてきたとおり、様々な問題はありましたが、

愛知で良い病院を見つけ、良い鍼灸院、お気に入りのスーパー銭湯を見つけ、

とても楽しい日々で、仕事の辛さは確かに過酷でしたが、良い職場の仲間達にも恵まれ、

充実した半年間でした。

帰ってきて、雇用保険が下りるかどうかの決定を待っている間は、やはり精神的には不安定でしたが、それでも、期間工のあのライン作業に立って、発作が起きそうな状態を乗り切った想い出を振り返ると、もうどんな状況でも乗り越えられるという自信を引き出すことが出来ます。

パニック障害発症7年目(発症から6年目)

現在の状況ですが、かねてから公教育への思いがあり、
それは、家庭環境に寄らず、皆が平等に教育を受ける機会
与えることの出来ることへの思いでした。

一昨年前、児童養護施設の子を中3から預かり、小学校の基礎基本が習得出来ていないため、
絶望的な学力と内申点で、なぜ、中3になるまでこの状態で放って置いたんだ・・・

という怒りに近い思いを抱きながら、それでも、

人生の中で一度でも必死で勉強した、
そして、一生懸命勉強を教えようとして
向き合ってくれた人が居た
という経験をさせてあげようと思い向き合いました。

結果は、やはりどの高校も無理で、それは内申点の低さから、分かっていることでした。

私の中学校の恩師とも相談したことがあって、地域によっては、
そういう特別な事情のある子は、
内申点だけでも、少し課題を多めに出して、
評価の足しにしてあげるなどの配慮がある
と聞かされていましたが、残念ながら、
その子の通う中学校の教師達には、そういう配慮は無く、
私は自分の力の無さを痛感したのでした。

もし、自分がもっと公教育への繋がりを持っていて、何らかの働きが出来れば・・・など悩み、

また、落ちたことでこの子は児童養護施設を追い出され、
県外のグループホームに行くことになり、
仕事は建設現場に入れられたと聞かされたことも、
『私も、同じように肉体労働の環境に身を置くことで、
少しでも同じ苦労を味わい、
それが力になれなかった自分への罰であり、
また、その子の置かれた環境への理解が深まる』
ような気がしたのでした。(←考えすぎ(^_^;)

実際働いて分かったことは、中卒の人や高校中退の人もいて、
みんな楽しく働ける環境があることで、
勉強が苦手で社会に出されて人にとっての受け皿が
ちゃんとあることでした。

自動車工場で働いたことで、少しだけ心の重しが軽くなった気持ちです。

そして4月からは、より積極的に学校現場に入っていくことに決め、現在その準備をしています。

パニック障害を発症したことで、自分自身を見つめ直し、日々、自分の健康に感謝して、

そして、囲まれる人々への感謝を忘れず過ごし、
新しい人生を始める切っ掛けになったような気がしました。

現状は、5段階で言えば、4と5を行ったり来たりの日々が続いていると思います。

もちろん、収入は激減するので、その分をどうやって捻出したり、
生み出せば良いか考えると、
不安で、精神面が持って行かれそうになることもあるのですが、

どんな状況でも、私があの時点で考え得る限りの一番キツい状況である、
期間工の仕事を乗り越えたことは、
パニック障害を克服する大きな経験となりました。

沖縄から遠く離れ知り合いがほぼ0見知らぬ土地に移り、
全く経験の無い工場勤務の仕事で、
頼れるのは、沖縄から持ってきた
買い換えたばかりのお気に入りの軽自動車1台です。

その状況で、工場勤務の1週間で1度パニック発作で医務室に運ばれましたが、
それでも、障害のことは隠し、
馴れない土地に来て緊張しすぎていると誤魔化しました。

連休中には、父が緊急手術をすることになり、急遽沖縄に戻り、
そのまま愛知に戻れそうにないほどキツかったのですが、

ここで逃げ出せば、一生克服出来ず、パニック障害におびえた日々を過ごすことになる・・・

そう決意して戻り、死ぬ気で仕事に取り組みました。

おかげで多くの友人が出来、今でも愛知県への思いが強く残っています。

あのまま、社員登用試験を受けて・・・という考えも頭をよぎりましたが、

やはり自分の天職は教育だという信念は強く、

安定収入でとても楽しい職場よりも

茨の道でありながら、天職であるこの仕事に戻る決意をしたのでした。

これから

これからどうなるのかは、誰にも分かりません。

ただ、自分の人生を切り開いていくのは、自分自身の決断と行動だけであり、

予期せぬ不幸や、幸運も、そういう人の手の届かない事には気を揉んでも無駄なので、

今、自分で選択し、出来ることに全てのエネルギーを費やします

そうやって偉そうに書いていても、私自身、実際はグータラで(^◇^;)

休みの日は、ダラダラと寝て過ごすことが多く、端から見れば、何もしないで

仕事もせずダラダラ過ごしているようにも見られそうです・・・

実際、現在は殆ど一日中、自宅で過ごし、時計を見てジムにトレーニングにって、

サウナに入り、おじいさん達とおしゃべりして、

時々、高2の教え子がマッサージして欲しいとやってくるくらいです。(野球部)

そういう夢のようなのんびりとした日々を過ごしている期間も必要です。

ただし、それなりに計画はあっての事で、支払いのお金、

今後の収入に関しての計算はしっかりとやっています。

何もやっていないように過ごしつつ、将来に向けての計画は着々と手を打っている・・・

嫌でも(むしろ望んでいるのですが)、

4月からは、また恐ろしいほど忙しくなっていくため、

今は、その充電期間だったりします。

最後に

パニック障害を発症し、向かい合う日々は、この辛い日々がずっと続いていくのか・・・という不安に襲われ、絶望的な気持ちになることもあります。

こうやって、改めて振り返ると、6年が経過していて、正直驚きました。

ただ、私の目標はしっかりと定まっていて、それは、

健康だった状態に戻す。通常の自分の状態に戻す。あたりまえの自分を取り戻す。

単純にそれだけで、その為には、西洋薬のような誤魔化しのインチキ医療には頼らない!

自然治癒力によって、自分自身の健康を維持する力を高める

そういうアプローチに徹してきました。

文章で書くと、力強く、日々、強く生きているように感じるかもしれませんが、

私は、普通に弱い部分をもった人間で、毎日、健康について考え生きているわけではありません。

調子が良いと、つい無理をしてしまい、症状をぶり返しそうになっては、反省する日々でした。

では、この6年間ですが、パニック障害によって、大切な人生の時間を無駄に過ごしたのかと言われれば、全くそうではありません。

この6年間にも、沢山の想い出が詰まっていて、様々な出来事があり、喜んだり、悲しんだり、出会いや、悲しい別れもありました。

大切なのは、パニック障害によって人生を振り回されず、今出来ることを、やる!

ただ、良いと思ったことは、実行する、出来なければ出来ないで、それは仕方ない!

そうやって、諦めずに出来ることをやる!その積み重ねだったと気づかされます。

固定観念で、諦めたり、拒絶していたことも、沢山のことを受け入れられ、チャレンジ出来るようにもなりました。

みんな、様々な悩みを抱えて日々暮らしているのだという思いから、

人にもさらに優しくなれた気もします。

私は、パニック障害を完治しよう!という考えはありません。

克服し、完全に自分のコントロールの下に置けるようにする事を意識しているため、

その結果、完治したと見えたとしても、パニック障害は、頑張りすぎる魂の暴走を

借り物の肉体が、自己防衛本能として発動するものなので、

また無理をすれば、簡単に再発するものです。

しかし、そもそもそういうものだと認識していれば、再発しても

そのコントロールの方法をマスターしていれば、容易く乗り越えられます。

この記事は、友人からのメールに答えているうちに長くなりすぎたので、

そのまま記事に仕上げたものですが、他にもパニック障害と向き合う方々の参考になればとまとめてみました。

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